June 23, 2007

さらばあの日のかのテレビ

 部屋の中がいつまでも片付かないことjに業を煮やし、使っていなかった古いテレビを半ば八つ当たり気味の勢いで捨てて来ました。近所の家電の店に聞いたらリサイクル料金を払えば引き取るとのこと、14インチのブラウン管は嵩張る割には軽く、片手でぶら下げて車に積み込めたし、手続きも店のカウンターで記名した程度で済んでしまい、やってみたら簡単なことでした。ついでに棚も買ってきて床に散らばっているものを積むことに。こちらは床の有効面積は広がったものの威圧感が出てしまい、初日は功罪相半ばという印象です。とはいえ、まぁ良くやったかな。

 などと自己満足していたときにふと気付きました。
 あのテレビ、そういえば一人暮らしを始めたばかりの春にすぐに買ったものだったんだっけ。

 人生の半分はもう一人暮らしを続けていることになるのですが、その始めの日々に買ったモノたちは、壊れたり引越ししたりする度に一つ欠け二つ欠け、今はもう幾らもありません。ここ1年ほどは部屋のレイアウトの関係でPCのチューナーでテレビを見ているのですが、その前はこの古テレビを使っていたのでした。故障した時はこっそり蓋を外し、基板を押すと点くことからどこかが接触不良なのだろうと推測したものの判定はつかず、そのうちうっかり感電しかけたため諦めて修理に出したこともありました。修理費用はかかったけれどちゃんと直ってずっと使えていた一品、今も別に壊れていたわけではありませんでした。

 捨てることになったのは現在の必然、捨てるべきだったとは思うけれど、嗚呼哀しい哉。

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April 08, 2007

オブジェクト

今も同じ夢に見ている。Rimg0124

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March 08, 2007

ミニコンポの帰還

 ミニコンポのアンプが修理から帰ってきた。

 このコンポ、10年ほど前に購入したもののそれほど活躍することもなく次第次第に壊れてきて部屋の隅に追いやられていたのだけれど、今回半強制的に部屋の大幅な模様替えをするにあたり、捨てるに忍びなく修理見積もりを依頼して判断をメーカーに預けてしまった、という次第。総額1万円弱で直ると言われ、折角送ったのだし直してしまおう、とそもそもの気弱を引きずったしまりのない話になった。

 いろいろな場所に不具合があったのだが、多分アンプのキャパシタあたりがいかれて合併症になっているんだろうと当たりをつけてアンプだけ送り出したところ、リレーがいかれていたらしい。症状が再現できました、と言われて、喜んでいいのか悲しんでいいのか。

 ステレオ、というとレコードを連想する。ちゃんと言うならステレオフォニックオーディオセットというべきか。その後、小型のコンポーネントステレオをミニコンポというようになり、ラジカセの上位機種の扱いで一世を風靡した。その頃主流の記録媒体はCDとカセットテープで、録音可能なデジタル媒体の模索はDATでは失敗したがMDで成功した。
 ところがその後、CD-RからDVDへとPCとの連携による記録媒体の乱立が始まり、フラッシュメモリーやHDDなどのオーディオへの逆流入が起きたらしい。久しぶりに家電量販店のオーディオコーナーを覗いたら、今もハイエンドなミニコンポはあるものの、主流はどうやら携帯デバイスにアンプとスピーカーをつけたような極めてコンパクトな製品群になっているようだ。よほどのプレミアものでない限りオーディオ機器の中古販売はできなくなっているような話も聞く。ミニといっても大きすぎるコンポはレコード同様、それほど思い入れのない者にとっては場所ふさぎなだけの時代遅れの代物になってしまったのかもしれない。

 部屋の真中にミニコンポを置いて結線し、帰ってきたアンプを最後に鎮座させ、帰還祝いにベト7を演奏してもらった。やはりでかいな、とは思うものの、もっと音楽に親しめるようになれるなら、古いコンポもなかなか良い物と思えるようになるだろう。

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March 05, 2007

雑踏に消えかける

 騒々しい世間で踏み消されてしまいそうな一線。

 人権はただの観念ではなくて、深くやすらかな眠りと心身を温めてくれる食事のことなのではないかな。

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December 16, 2006

アイスクリームのラムレーズン

 以前とある海辺の観光地で大好物のラムレーズンアイスクリームを大盛にしてもらって自由の女神のトーチよろしく右手で持って歩いていたら背後から滑空してきたカモメが右肩すれすれに飛び過ぎたので驚いてアイスクリームを見たら嘴の痕が深々と残っていた、ということがありました。信じがたいことですが、おそらく奴はラムレーズンをピンポイントで啄んだのでしょう。・・・あくまで仮説ですが。

 ところで、CMの中でクラッシック音楽の1フレーズやそのメロディラインのアレンジなどが使われることがよくありますね。その曲の中でも一番有名なサビの部分が選ばれやすい。小説でも一節だけが切り取られて言葉の断片として使われることがあります。言葉は切り取った部分が短いほど多義的になり、上手く使えば効果も大きい反面、原文の意図からは離れてしまうことも。

 著作権等の権利の問題さえクリアしていれば、優れたメロディやフレーズは蓄えられ繰り返し使われることによって広く末永く行き渡る方がいい。特にせわしない今は、例えば交響曲1曲を30分以上かけて4楽章全部聴く気にはならず、プロがそのエッセンスだけを切り出して現代風にアレンジしてくれた方が親しみやすい。けれどそこからは原曲の全体的な構想はどうしても抜け落ちてしまいます。小説もしかり。サビの一句は切り出してそれだけを眺めるとしばしばクサいけれど、本来はその一句を生かすための下準備の文脈があり、本来は小説全体のなかの一節として生きるように書かれたものだろうと思います。

 スポーツニュースのダイジェストで各チームのフォワード達によるゴール集を見るのとサッカーという競技全体を楽しむのとは少し違う。ラムレーズンだけを取り出してぱくぱく摘み食いするのと時間をかけてゆっくりと食事しアイスクリームまで味わうのとは別。どちらが良いというわけではなく、その両方があることを知る余裕だけは持っていたいと思うわけですよ、カモメ君。

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December 14, 2006

第一夜

 昔、CDのジャケットに惹かれて買った曲、リムスキー=コルサコフの交響組曲《シェエラザード》を久しぶりに聴いています。
 シャリアール王は心の奥深くで傷ついていた。彼は一度は世を捨てて放浪の旅に出たけれど、そこで再び決定的な傷を受け、切れてしまう・・・『千夜一夜物語』の中にはもう一度読みたい話が幾つか含まれていたけれど、今も思い出す珠玉の物語はひとつ。この千夜一夜の枠組になっているシャリアールとシェエラザードの話、二人が出会うまでのいきさつと千夜と一夜の長い長い夜の物語です。

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December 10, 2006

ディオゲネスの樽

 古代ギリシャの哲学者ディオゲネスは、神殿で寝起きして「アテナイ人は自分のために住処を作ってくれる」と言ったとか。またあるときは住みかにしていた甕が割られてしまったが、すぐに別の甕をもらうことができたとか。
 ディオゲネスは欲望から解放されて自足することが重要と考えており、そのための肉体的・精神的な鍛錬を重んじたそうです。確かに物質的な快楽を求めずして誇り高い生き方をするには心も体もタフでなければなりますまい。大したもんだ、と感心する一方で、彼の生き方を可能にしているのは都会的な繁栄のお蔭でもあるんじゃないかな。

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December 09, 2006

どうとでもしやがれ

 体の具合が悪いときはできることの選択肢が極端に少なくなります。今日一日、床の中で眠れるときは眠り、眠れない時は苦痛を最小限にするように我慢していました。どうとでもしやがれ。病気は開き直るということを思い出させてくれます。

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December 08, 2006

自爆ハンスくん

 堤防に穴ができて水が漏れているのを発見したハンス少年は、その穴に腕を突っ込んで決壊を防ぎました。腕が冷え切って感覚をなくしても助けが来るのを待ち続けました。・・・・・・子供の頃、道徳の時間にこんな話を聞いたのを思い出します。この話はフィクションというか、一種の伝説なんだそうですが、今日職場で似たような状況に陥ってしまいました。”穴”を作って”水”を漏らしたのも自分自身なので単なる不用意な自爆だったわけで、久々に大いに冷汗をかいて焦りまくりました。安全第一、なめたらいかんいかんなぁ。

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November 12, 2006

ちょっと好きになる

 ドイツの社会学者 Walter Chottsky 氏によると、多くのものごとを少しだけ好きになるというのは趣味が良く大人としてあるべき態度だが、実際には到達が困難な境地なのだそうです。
 この世界で時を越えて連綿と受け継がれてきたものには大抵それなりの価値があるものですが、 関心を持つ契機がないとなかなか好きにはなれないもの。これは Chottsky欠陥と呼ばれていますが、簡単に言えば「喰わず嫌い」というヤツです。
 さらに、きっかけがあっても強制力が強すぎたり、その道の博学の者が幅を利かせすぎたりしていると、逆に嫌いになったり敬遠したりすることになります。これは Chottsky障壁の高さとして数量化が試みられていますが、多くの学問のみならず一部の娯楽ですらこうした入門の壁が厚い分野があることが知られています。こうした分野でも入門者が主となり専門家、好事家がアドバイスを与えるという姿勢でいれば、良好な Chottsky接合が形成され、少し好きな人々が安心して楽しめる場が作りうる、というのが彼の理論の趣旨です。
 彼によると森羅万象を少しだけ好きになることが教養の復権であり、社会全体の人々の意思の疎通を円滑にするのだそうで、これを Chottsky効果と名づけているのですが、そんな大層なことを言わなくても、ただの好奇心と楽しみのために、ちょっと好きになるための場所があったらいいと思います。

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